台北にある国立台湾博物館。旧名「児玉総督 後藤民政長官 記念館」の天井。
東京は本当はもっと水と緑にあふれた街になるはずだった。今の東京の背景には、ある一人の東北人の活躍がある。1923年に発生した関東大震災で壊滅した東京を復興に導いた人物。
後藤新平(ごとうしんぺい)
初めて耳にする方も多いかもしれない。
もし私が台湾を旅しなければ一生知らなかったであろう人物。江戸末期(1857年)に今の岩手県胆沢地域に生まれ昭和4年(1929年)に亡くなるまでに数々の偉業を成し遂げた。
医者であり政治家。台湾発展の基礎を創り、満州鉄道初代総裁となり、総理大臣に次ぐ日本のNo,2である内務大臣を務め、関東大震災で壊滅した東京を復興させた男。
後藤は、人としての圧倒的に大きな器と非常な先見性をもっていた。
東北が生んだ英雄、後藤新平。今回は関東大震災後の東京復興にフォーカスをあてて書いていきます。(後藤新平に関して書きたいことはたくさんあるのでいくつかのテーマにわけて書きます)
関東大震災で壊滅した東京
1923年、東京を中心に関東大震災が発生した。東京は壊滅的な被害をうけた。死者10万人を超える大災害。とりわけ被害を大きくした要因は、地震のあとに発生した大規模な火災だった。(戦前では世界最大の都市大火)
死者の9割超が火災による犠牲だったことからもわかるように、尋常ではない火災が発生した。(一か所で数万人が焼死するほどの火災。現在の東京都復興記念館があるあたりが最も被害の大きい地域)
地震と火災により東京一面は焼け野原となり、多くの人命と建物の大半が失われた。まさに、帝都東京は絶望的な状況になった。
このとき、壊滅した東京を復興させる責任者に選ばれた人物こそ、当時の日本の内務大臣(副総理格、総理大臣に次ぐポジション)の地位にあった後藤新平だった。当時67歳。
後藤は非常な先見性、圧倒的な行動力、強い責任感、国民への愛情をもった人物だった。もし後藤でなかったならば、東京の復興はうまくいかず、今のような東京は存在していなかっただろう。
日本人のほとんどの人は知らないだろうが、東京にとって後藤は非常に大きな意味を持つ人物。
様々な横やりが入る中、後藤はそれでも、帝都復興のために部下と協力しながら命を削って働いた。いったい後藤は何を成し遂げたのか。震災直後の後藤の働きをみていきます。
後藤新平の帝都復興計画
震災発生直後、後藤は帝都復興院(※)総裁に任命される。帝都復興院とは、関東大震災から東京を復興させるために後藤の発案で設けられた一時的な組織。(一時的とはいえ省と同格の権限を有していた)
この立場を最大限に生かし、後藤は東京の復興を実現していった。後藤が計画した復興ビジョンとは。当時、後藤が作成し閣議提出した「帝都復興の議」には次のように書かれている。
東京は帝国の首都にして、国家政治の中心、国民文化の淵源(えんげん)たり。したがって、この復興はいたずらに一都市の形態回復の形にあらずして、実に帝国の発展、国民生活改善の根基を形成するにあり。
されば、今次の震災は帝都を化して焦土となし、その惨害言うにしのびざるものありといえども、理想的帝都建設のための絶好の機会なり。(中略)
この機会を逸せんか(のがせば)、国家永遠の悔を遺すにいたるべし。よってここに臨時帝都復興調査会を設け、帝都復興の最高政策を審議決定せんとす。
『後藤新平―大震災と帝都復興,越澤明著,ちくま新書,P.204-205』より引用。()内筆者追記。
後藤が東京復興にかける想いが伝わってくる。後藤は帝都復興院の幹部職員を後藤と縁のある優秀な人材でかためた。
後藤には、これはと見込んだ人物を引き抜き、自らの部下にするという特徴があった。人を使うのが抜群にうまかった。
後藤が台湾総督府の民生長官や満州鉄道総裁として活躍した時などに部下だった人物(皆、抜群に優秀)を日本中から呼び寄せ、それぞれの力を活かして東京復興に全力を尽くした。
後藤とその部下たちは、寝る間も惜しんで詳細な復興計画、復興予算案を作成した。しかし、後藤たちが総力をあげて短期間で完成させた復興予算案は、大幅に削減されてしまう。
帝都復興審議会に提出された時点の復興予算案は7億2千万円。しかし、最終的にその額は約4億7千万円に削減されてしまう。(後藤たちが見積もった時点では、最低ギリギリのラインでも10億円が必要という試算結果を出している)
政治的な思惑などの事情により予算は削減された。(復興が計画通りに進んで、後藤が次期総理になってしまうことを阻止する等の目的があったとされる)
後藤は断腸の思いでこの大幅削減案を受け入れた。復興が遅れることにより、震災による苦難を抱えている東京市民にさらなる困難をもたらすことは、何としても避けたかった。
結局、予算の削減により後藤たちが計画した復興計画から、大きな公園や広場、幅の広い道路などが削られていった。
もし、後藤の計画通りに東京の街づくりがなされていたならば、今の東京はもっと公園が多くて、緑や水の豊かな街になっているはずだった。
のちに、昭和天皇は後藤新平の計画が予定通りなされなかったことに対して、次のように語っている。
「震災のいろいろな体験はありますが、一言だけを言っておきたいことは、復興にあたって後藤新平が非常に膨大な復興計画をたてたが…もし、それが実行されていたらば、おそらくこの戦災がもう少し軽く、東京あたりは戦災は非常に軽かったんじゃないかと思って、今さら後藤新平のあの時の計画が実行されないことを非常に残念に思っています。」
『後藤新平―大震災と帝都復興,越澤明著,ちくま新書,P.235』より引用。※ここでいう戦災とは、東京大空襲のことを指します。
ただ、縮小されたとはいえ、そもそもの計画が巨大だったこともあり、後藤の計画の内の何割かはきちんと実現された。
規模でみれば、震災による消失区域の約9割にもおよぶ区域で区画整理が行われた。これは世界の都市計画史上、前例のない規模の大掛かりな街の改造であった。
もちろんその跡は今でも残っている。東京を歩けば目にすることが出来る。(というより、歩いている道路自体が後藤の計画の一部)
たとえば、この巨大な道など。行幸道路。東京駅から皇居へと続く大きな道。道幅73m。
その他にも、昭和通り、大正通り(靖国通り)、八重洲通り等の大きな道路がある。今日の東京でみられる主な道路はこのときにつくられた。
震災前の東京は、江戸時代の街のつくりが残っていて舗装もされていないような悪路がたくさんあったことと比較すると、まさにこの時を境に近代的な街に生まれ変わったと言える。
しかし、こんなにも大事なことなのに日本人はほとんどこのことを知らない。なぜか。最後に東北の歴史と関連させてまとめます。
現代人は東京復興の立役者、後藤新平を知らない
ここまでみてきたように、東京復興に際し後藤新平が果たした役割はとてつもなく大きい。
しかし、このことをほとんどの日本人は全く知らない。
これは後藤が東北人、岩手の出身であることと無関係ではない。少なくとも私はそう考える。
後藤が生まれたのは江戸末期の1857年。1868年に日本中を巻き込んだ戊辰戦争が起こり、日本国内は「官軍」と「賊軍」に分けられた。後藤の生まれた岩手県水沢の地域は、その当時は仙台藩の領地。つまり新政府軍に負けた側の「賊軍」だった。
「賊軍」とされた東北人が活躍したことは、あまり表に出してはいけない歴史。特に明治期は薩摩・長州藩出身者の力が強大で、東北出身であるというだけで、非常につらい立場にあった。(後藤や原敬が東北出身者として活躍した人物の筆頭だが、このように活躍できたのは例外)
東北地方の多くは奥羽越列藩同盟に属した賊軍の地であり、新政府軍から「白河以北一山百文」(白河関から北の土地は一山で百文の価値しかないという侮蔑表現)と蔑まれた。明治維新後に東北出身者が、東京で活躍し、立身出世を遂げるためには、本人が潜在的な能力を持っているだけでは到底無理である。そのような有能な人材が見いだされる偶然の機会、上司に恵まれる幸運な機会がなければ、有意の人材は現地に埋もれてしまう。
『後藤新平―大震災と帝都復興,越澤明著,ちくま新書,P.42』より引用。
本当は、現代を生きる日本人の全てが知っておいてしかるべきこと。日本は東京の首都である。もし、後藤がいなかったならば、東京は今のような形にはなっていない。
あの当時、後藤と同じポジションを担える人材は日本のどこを探してもいなかった。行動力、人望、知性、経験を兼ね備え、日本のNO.2である内務大臣という地位にあり、都市計画に精通していた後藤だからこそ、復興院総裁という極めて難しいポジションを全うすることが出来た。
たくさんの人に知っておいてほしい。東京復興の立役者は東北人である後藤新平。
なぜ、後藤が東北人でありながら、明治から昭和初期にかけての日本で例外的に出世し、活躍することが出来たのか。また、なぜ東北人はそれほどまでに、辛い立場にあったのか。このことは、とても今回だけでは書ききれないので、別の記事で改めて書きます。
また、後藤を語るには、台湾を外すことは出来ない。後藤は台湾民生長官時代の功績により、台湾で今でも高く評価されている。このこともまた別の機会に書きます。
ということで、この投稿はこれで終わりとします。後藤新平と東京の関係。心に留めておいていただけると嬉しいです。
(完)
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