2020
15
Mar

エミシ, 東北, 福島, 言葉

『Fukushima50』放射能から日本を救った男たち

先日映画を観に行った時、「 Fukushima 50 」の予告編を見た。知っている内容だと思ったら、読んだことのある本が原作だった。『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』(門田 隆将著, PHP研究所)。

いつかブログに書きたいと思っていた。現代を生きる日本中の人に知っておいてほしい。3.11の震災が起きた時、最も危険な原発の最前線で闘い続けた男たちがいる。以下、本の内容をベースに私の視点(東北・エミシとの関連を含めて)で、記述します。(※映画の内容を含むため、気になる方は読まないでください)

想定外の津波―全電源喪失の危機―

2011年3月11日に発生した東日本大震災による津波により、福島第一原発(通称F1)は壊滅的なダメージを受けた。 設計上の限界を超える、全くの想定外の大津波。 非常時のバックアップ電源を含め、原発をコントロールする電源設備が全てやられた

全電源を喪失するという絶体絶命の状況の中、放射能汚染の危険を承知の上で誰かがとどまり原発をコントロールしなければならない

放射線量が高まり、最後の撤退命令(”必要最小限の人間を残して全員撤退”という吉田福島第一原発所長の指示)が下った後も残り続けた男たちがいる。

彼らのことを海外メディアは尊称を込めて“Fukushima50”(福島フィフティ)と呼んだ。最前線にとどまり、限界の状況下で闘い続けた男たち。その数50名超。(正確には69名と本には記載あり)

死を覚悟して踏みとどまり、原発をコントロールした男たちは、主に福島出身の人たちだった。彼らがいなければ、今の日本はない。原子炉の1号機、3号機が水素爆発を起こし、Fukushima50を残して全員が撤退した時、残る2号機も爆発寸前の危機的な状況にあった。(3月15日午前6時過ぎ時点)

しかし、本当にギリギリの状況で奇跡的に2号機が爆発することはなかった。残ったメンバーは目の前のやるべきこと(様々なメーターの計測、原発を冷やすための消防車での放水活動等)を地道に続けた。結果として、なんとか持ちこたえて最悪の事態を回避した。

もし、2号機が爆発していたら、どうなっていたか。放射線量の高まりにより、誰もとどまることが出来なくなり、制御する人間がいなくなった原発は暴走を開始する。

コントロールを失った原発が放射能をまき散らし続け、最悪の場合、日本が三分割されていた可能性がある。放射能汚染により、福島第一原発を中心に約250kmの圏内、人口5000万人が住む地域が居住不可になる。住めるのは北海道や西日本地域のみ。関東全域は一切居住不可。想像しただけでも恐ろしくなる。

Fukushima50の活躍と共に、この最悪の状況を防ぐことができた背景には、特に一人の男がいる。本のタイトルにもなっている、福島第一原発所長、吉田昌郎。当時の現場の最高責任者。もちろん、一人の力だけでコントロールしたわけではない。

しかし、トップの人間の在り方は、配下の人間に絶大な影響を与えることを考えれば、吉田所長の功績は計り知れない。ここから少し吉田所長にフォーカスしてまとめていきます。

福島第一原発所長、吉田昌郎

現場の最前線で原発を制御してくれた男たちがいたことに加えて、日本にとって幸いしたこと。それは、当時の福島第一原発所長が、吉田昌郎(よしだまさお)だったことこの事実は、日本や世界の命運を左右するくらいに決定的に重要だった

人間的に大きな器をもった吉田所長でなければ、あの絶望的な状況下で的確な判断を迅速に下し、混乱する現場をまとめ、最終的に原発をコントロールすることはできなかった。

たとえば、津波によって全電源が失われたという報告を受けた時、吉田所長はすぐに消防車の手配に動いている。結果的に、消防車を用いて早くから原子炉の冷却をしたことが、原発をギリギリの状況で押しとどめる結果となった。

最前線の現場にいる吉田所長と、遠く離れた東京の東電本社、首相(当時の首相は菅直人)との壮絶なやり取りもあった。情報の行き違い等もあり、全く非現実的な指示が東電本社や、首相官邸から飛んできた。

テレビ会議の場面では冷静な吉田所長が何度も「バカヤローッ!!」という言葉を発している。明らかに間違っている命令。もし、いくつかの命令に吉田所長が素直に従っていた場合、今とは全く異なる(悪い)結果に繋がっていた可能性がある。

吉田所長は自らの責任において、時に東電本社の上層部や首相官邸の指示を無視して、冷静に“今現場でやらなければならないこと”に注力し、判断を下した。

原発の冷却に海水を使う以外の手段がなくなったとき、吉田所長はすぐに海水による冷却を開始させた。しかし、そのすぐ後、東電本社から海水による冷却はストップしろという指示が飛んで来た。

『首相官邸がグチグチ言っているから、ストップしろ』という無茶苦茶な指示。吉田所長はこの指示を無視して、冷却活動を続けさせた。

もしこの時、吉田所長が指示通り冷却をストップさせていたらどうなっていたか。誰にも結果は分からない。しかし、上述した通り、原発が持ちこたえたのは本当にギリギリの状況だった。たとえ数十分でも冷却が遅れていたら、最後の2号機も爆発し、原発から250km圏内が居住不可区域となっていた可能性もある。

仮に、福島第一原発所長が別の人間だったとしたら、今頃、日本はどうなっていたのか。たった一人の人間だと思うかもしれない。しかし、あの時の福島第一原発所長という立場は、きっと世界中で最も重要なポジションだった。少なくとも、日本の命運をその手に握っていた。

吉田昌郎が福島第一原発所長だったことこそが、日本にとっての救いであり、奇跡なのだと思う。本当にギリギリの状況で吉田所長と、その部下たちの懸命の行動が原発の暴走を押しとどめ、最悪の状況から日本を救った。

絶体絶命の状況下、最悪の場合、東日本全域が住めなくなるという絶望的な未来を想像しながら、部下たちの命をその手に握り、 現場のトップとして壮絶なストレスにさらされながら、ギリギリの状況で判断を下し続け、最前線で原発の制御に 文字通り命懸けで取り組んだ吉田所長は、震災から2年後の2013年、食道がんで亡くなっている。

部下たちと共に最前線にとどまり、最後まで逃げることなく自らの職責を全うした男、 福島第一原発所長、吉田昌郎。何度も言うが、今の日本があるのは、吉田所長の功績によるところが大きい。日本に生きる私たちは、少なくとも、この一人の男の名前を知っておくべきである。

最後に、エミシの歴史との繋がりを書いて今回の記事を締めたいと思います。

福島が歴史上背負っているもの―エミシの歴史―

2011年、日本で最大の犠牲を払うことになった福島。(津波による被害はその他の東北地域の方がはるかに大きいが、人体に計り知れない影響を与える放射能の影響を一番受けたという点において、最大という表現をしています)

日本の中で、どこか一か所だけが、最も苦しい役目を負わなければならない時、日本の歴史上においては、その役目を東北が背負っていることが多い。

今から約150年前、日本の近代化(勝者の視点では明治維新、東北を中心とする敗者の視点では戊辰戦争)の過程で、最大の犠牲を強いられた藩はどこか。会津藩。今の福島県。

どこかが、最も辛い立場を引き受けなければならなかった。幕末の日本においては会津藩を除いて、その役目を負うことが出来る藩はなかった。結果的に、会津藩は逆賊という汚名を着せられ、新政府軍によって徹底的に攻められ、藩としては最大の死者を出し、藩を消滅させられ、下北半島に追放された。

■会津藩の辿った歴史の詳細については以下の記事を参照

結果的に日本は、会津藩(その他東北諸藩も含む)を犠牲にして、近代化に舵を切った。誰かが身を切らなければ、日本の歴史を次に進めることは出来なかった。今から150年前はその立場を会津藩が、2011年はその役目を福島が背負った。

福島第一原発が暴走したのは偶然なのかもしれない。しかし、歴史という視点から観た時、私は東北が背負い続けている何かを感じずにはいられない。

福島が最も強いからこそ、最大の試練を負った。 他の日本の地域では、とても抱え切れないものがあるとき、どうもそれを代表して東北が背負っているように感じる。少なくとも1200年に渡る東北の歴史がそれを示している。 優しくて強くて耐え忍ぶ力があるからこそ、東北が最も大きな困難に直面する。

■東北の歴史については以下の記事を参照

地震や津波は天災だから、今までの歴史との関連性は、私の勝手な思い込みなのかもしれない。しかし、事実だけをみた時、地域という点において、歴史の転換期において、近現代の日本の中で最も大変な状況下に置かれたのは、会津であり、福島である。

だからこそ、私たちは知らなければならない。東北の本当の姿を。何が東北で起きていたのかを。今回の記事に書いたことも、歴史に埋もれさせてはいけない。日本の最前線で頑張った、吉田所長をはじめ、福島の人たちがいたからこそ、何とか原発は食い止められた。

今の日本があるのは、偶然ではない。背景には、東北の人たちの命懸けの頑張りがある。冒頭にも書いたが、今を生きる私たち日本人は、少なくともその事実を知っておくべきである。ひいては、東北の歴史自体を知っておくべきである。

私はこれからも、東北を旅して東北の記事を発信し続けたい。この投稿がきっかけで東北に興味を持って下さる方がいらっしゃれば、これほど嬉しいことはありません。

今回は、門田さんの著書 『死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日』を元に東北の歴史と繋げて書いてみました。 興味がある方は、本を読むか、映画を観てもらえたらと思います。

(完)

 

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