(戊辰戦争後、会津藩の人たちが移住した下北半島で撮影)
先日、京都、金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)というお寺を訪れた。
京都にありながら、三連休の中日にもかかわらず、ほぼ全く人はいなかった。
ここには日本人の記憶から消え去ろうとしているが、決して忘れてはならない歴史がある。
金戒光明寺には明治維新の影で命を落とした300名以上の会津藩の方々がひっそりと眠る。
日本の近代化の礎(いしずえ)となり、日の目を見ることなく散っていった人たち。
会津の歴史を知ってから一度訪れてみたいと思っていた場所。
なぜ京都に会津藩のお墓があるのか。
光があれば影がある。表があれば裏がある。
(福島、二本松で撮った空)
表の歴史にはほとんど出てこない、裏の歴史。
東北を追いかけなければ、会津を知らなければ、おそらく一生知ることのなかった歴史だが、東北に惹かれる私にとってはとても大切にしたい歴史。
東北を知るための、一つのきっかけとなり得る場所。
今回は、京都を守るために命を懸けた会津の話を書きます。
『京都守護職』として京都を守り、滅んだ会津藩
時は1862年。幕末の日本。激動の時代。明治維新が起きる6年前。
今の時代からは想像できないかもしれないが、当時、京都では尊王攘夷過激派による暗殺や強盗が日常的に発生していた。(※尊王攘夷とは天皇を尊重し外敵(アメリカやイギリス等)を撃退しようとする考え方のこと)
京都の人々は安心して街を歩くことが出来なかった。
治安が荒れる京都を、天皇が住まう都を誰が守るのか。
徳川幕府が白羽の矢を立てたのが会津藩だった。
ペリーの来航を機に尊王攘夷運動が激化、京都が無政府状態に陥ったとき、会津藩の家訓を脳裏に浮かべた男がいた。(中略)強力な軍団を持ち、一糸乱れぬ統制を誇る会津藩に上洛を命じ、京都守護職として、治安の回復、朝廷工作に当たらせようというのである。(『敗者の維新史-会津藩士 荒川勝茂の日記-』星亮一著,青春文庫,P.14より引用)
常日頃から教育・訓練を怠らない会津藩には京都を守るだけの力があった。
幕府の要請を引き受けるかどうか。
当初、会津藩の中でも意見が割れた。
たとえば、会津藩家老の西郷頼母(さいごうたのも)は大反対している。
「いまはこれを引き受ける時ではありませぬ。それはさながら薪を負うて火を救うようなもので、おそらくは労多くしてその功はないでありましょう」(『幕末の悲劇の会津藩主松平容保』,綱淵謙錠ほか著,新人物文庫,P.35より引用)
しかし、最終的に会津は会津藩に代々受け継がれる掟に従い、京都守護職を引き受けた。(数年後、会津藩はこの選択(京都守護職就任)をしたことにより滅びることになる※)
※会津藩が辿った運命についてはこちらの記事参照
京都守護職の大任を引き受け、会津藩士約1,000名と共に京都を守るために東北の地からはるばるやってきた会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)たちは、京都の人々に大歓声で迎え入れられた。
会津藩が、荒れる京都を守ってくれる。
この時、会津藩が最初に拠点としたのが金戒光明寺である。(後に京都守護職屋敷ができるが、金戒光明寺は会津藩の強力な拠点であり続けた)
会津藩は任務を全うし命懸けで京都の治安、天皇の命を守った。
京都守護職時代に命を落とした会津藩士の数、約240名。
戊辰戦争の初戦、鳥羽・伏見の戦いで命を落とした会津藩士の数、約120名。
皆、金戒光明寺に眠っている。
日本を代表する観光地、京都。毎日、日本や世界各地からたくさんの人が訪れている。
しかし、近代日本の歴史の中で、京都を守るために会津の人たちが命を懸けたことを知る人は、果たしてどれだけいるだろうか。
会津の人たちは『俺たちが命懸けで頑張ったおかげだ』と強く主張することはない。
しかし、
ひっそりと眠りながらも、今も静かに訴えかけ続けている。
どうかこの歴史を消し去らないでほしい、と。
基本的に歴史を作るのは勝った側。
近代日本史の中で、悪者とされた会津藩。(現代では会津藩の立場で描かれた「八重の桜」のようなドラマなどもたくさん存在する)
歴史の上では、天皇に逆らった“朝敵”であり“逆賊”の会津とされてしまった。
しかし、歴史をみていくと、徳川幕府からも天皇(孝明天皇)からも最も信頼されていたのが会津藩であるということが分かる。
金戒光明寺を訪れると、その歴史の一端を知ることが出来る。
お墓の入り口の近くに「会津墓地来訪者ノート」というものがあったので去年1年分をざっと目を通してみた。
“会津から来ました。今の日本があるのはあなた方のおかげです。私は会津を誇りに思います。どうぞ安らかにお眠りください”
というようなニュアンスの言葉が、随所に記載されていた。
読んでいて何度か涙しそうになった。
徳川幕府の命に従い、京都を命懸けで守ったがゆえに、長州の恨みをかってしまった会津。(会津藩や会津藩傘下の新選組の人間が、仕事として長州藩の人々を多数殺しているのもまた事実)
最終的に会津藩は、薩摩・長州を中心とする新政府軍と戦争(戊辰戦争、会津戦争)になり、徹底的に攻撃され3,000名超の死者を出して敗北する。
当時、会津藩ほど犠牲を強いられた藩は、日本に存在しなかった。
結果、会津藩は消滅させられ、会津藩士・家族たちは本州の最北端、今の青森、下北半島に追いやられることになる。(※)
※会津藩消滅後の運命についてはこちらの記事参照
近代日本成立、明治維新の影で歴史の表舞台から消えていった会津。
強かったがゆえに、
義理堅かったがゆえに、
優しかったがゆえに滅び去った会津。
会津を象徴する言葉に「義に死すとも不義には生きず」という言葉がある。
あの時、京都守護職を引き受けることのできる藩は、おそらく会津をおいて他にはなかった。
激動の幕末期日本。大多数の藩が傍観する中、会津藩は日本の中心、燃え盛る炎の中へと自ら飛び込んだ。
たとえ国は滅びようとも、自らの義を貫き通す生き方。
まさに、東北らしいといえば、東北らしい生き方。
戊辰戦争を生き残った旧会津藩主松平容保は、京都守護職時代に孝明天皇から「京都を守ってくれてありがとう。会津のおかげです」というような手紙をもらったことを、会津藩の部下を含めて死ぬまで誰にも明かさなかった。(本当は朝廷の敵「逆賊」ではなく、天皇から信頼されていたことを示す証拠)
『これは私とあなただけの秘密にしておいてください』という孝明天皇との約束を死ぬまで貫き通した。
黙して語らず。
まさに会津を象徴するような生き方。
会津藩主、松平容保に従い京都に赴き、命を落とした300名超の会津藩士たち。
強く主張することはないけれど、今も静かに訴えかける金戒光明寺の会津藩墓地。
みんなに訪れてくれとは言わない。
けれども、もし何かを感じる人がいたら、是非、京都を旅する際に行ってみてほしい。
ここには東北の涙がある。
近代日本の成立過程で命を落とした会津藩の人々が眠る場所。
京都にいながら東北の涙を感じることのできる場所。
東北はいつも日本の歴史の影に隠されてきたが、非常に大切な役目を果たしている。
東北が背負い続けている、使命とでもいうべきもの。
東北なかりせば、今の日本はない。
今回の歴史も、決して簡単に消し去ってしまっていい歴史ではない。
金戒光明寺、有名な観光地ではないけれど、気が向いたら訪れてみてもらえると嬉しいです。
では。
(あとがき)
会津の記事でも書きましたが、私が東北に惹かれる以上、どうしても会津に肩入れした記述になってしまうことはお許しください。文献によっては当時の京都の人たちにとって、会津は善でもあり、悪でもあったというような記述もあります。やはり歴史は、いろんな視点で観ることができるなと、知れば知るほど感じます。
京都には他にも東北を感じられる場所(清水寺のアテルイとモレの石碑)があるので、また訪れて書きたいと思います。
■金戒光明寺HP
ずっと朝廷側から征伐されて来たのに、朝廷を守れとは。そしてそれに従う正義感。蝦夷の歴史を読ませて頂きましたが、消されてきた歴史を知り胸が張り裂けそうです。