2018
30
Sep

エミシ, 会津, 戊辰戦争, 明治維新, 東北

『義に死すとも不義には生きず』-義を貫いた会津藩-

(会津若松、鶴ヶ城。ここで約1か月に及ぶ籠城戦が繰り広げられた)

義に死すとも不義には生きず

会津藩の生き方を象徴するこの言葉。今から150年前、日本の近代化、明治維新の過程で命を落とした無数の人たち。当時、会津は義に従って行動し藩として日本中で最も多くの犠牲を強いられた。

(2018年の会津まつり.1868//9/22は会津藩が降伏した日)

今でも会津周辺の土地には戊辰戦争で亡くなった東軍・西軍、両者のお墓がたくさん残っている。

会津戦争最初の激戦地、白河で命を落とした人たち。勝ち目がないと分かっていても、正しいと信じるもののために戦った二本松の人たち。そして、会津若松、鶴ヶ城籠城戦で亡くなった人たち。

(会津戦争、白河口最大の激戦地、稲荷山.会津藩・仙台藩を中心にたくさんの名前が並ぶ)

(二本松少年隊の墓。会津の白虎隊より若い12-17歳で戦死)

(飯盛山、白虎隊の墓.線香の火が絶えることはない)

新政府側につくか、旧幕府(会津)側につくか。

当時、日本中の諸藩は大きな選択を迫られていた。会津、東北も例外ではない。以下、簡単に会津降伏までの流れを記述します。

黒船の来航と江戸幕府の終焉、会津の降伏

1853年のペリー率いる黒船艦隊来航を機に外国の脅威が迫り来る幕末期の日本。激動の時代。危機を乗り越えるため日本は変革を迫られた。約260年続いた江戸時代を終わらせるためには、どこかの犠牲が必要だった。

破壊と創造。徳川の時代を終わらせ、薩摩・長州が中心の明治新政府を樹立するためには、どこかが血を流さなければならない。

倒幕に燃える薩長の志士たち。一度立ち上がった矛(ほこ)は簡単には収まらない。江戸城は無血開城した。誰かがその矛を受け、江戸幕府の身代わりになる必要がある。そこで白羽の矢が立ったのが会津藩。

(二本松の空)

会津藩主松平容保(かたもり)率いる会津藩は徳川最後の将軍、徳川慶喜を最後まで守った。京都を守ること(京都守護職)を幕府より命じられていた会津(新選組含む)は仕方なく、暴れまわる長州の志士をたくさん殺した。

政権が薩長に移った後、鳥羽伏見の戦いを経て、徳川慶喜とともに江戸に逃れた会津藩は恭順(戦わない意志)を示していた。しかし、新政府はその恭順姿勢を無視した。

それでも、なんとか戦争を回避しようとする東北勢は同盟を結び、会津藩(庄内藩含む)を助けてくれるよう、新政府側の使者に対して嘆願書名を出した。しかし、これも拒否された。

(東北の同盟、奥羽越列藩同盟のシンボル)

恭順が認められない以上は、戦うしかない。こうして、会津をはじめとする東北勢は戊辰戦争に巻き込まれていく。

会津は果敢に戦うが、圧倒的な兵力と武器の性能で勝る新政府軍(西軍)には勝てなかった。

5か月余り続いた会津戦争は、最終的に会津の降伏・開城で幕を閉じることになる。会津の死者は約3000名に及んだ。

(鶴ヶ城.会津戦争当時、ここには雨のように無数の砲弾が撃ち込まれた)

涙なしに会津をみることはできない。徳川幕府のため、天皇のために最前線で命を懸けて戦ったのが会津の人々。

会津藩の女性、新島八重を主人公にした「八重の桜」というドラマの中に象徴的な言葉がある。

私は何度考えても分からない。天子様(天皇様)のため、公方様(徳川幕府)のため尽くしてきた会津が、どうして逆賊と言われなければならないのか。

会津の者なら皆知っている。悔しくてたまらない。死んだ皆さまは、会津の誇りを守るために、命を使ったのです。どうか、それを無駄にしないでください。本当は日本中に言いたい。会津は逆賊ではない。

大河ドラマ「八重の桜」より

土津(はにつ)神社ののぼり.”忘るるなかれ會津魂”と書かれている

歴史をみていくかぎり、”義”があったのは会津。薩摩と長州は会津を利用した。会津は”朝敵” ”逆賊”とされ滅ぼされた。

会津と同様、新政府勢力と戦った東北の庄内藩について書かれた本の中にこんな言葉がある。

「我々薩摩は、庄内と会津を利用した。違うのか。」

(『庄内藩幕末秘話』宇田川敬介著より引用)

庄内藩の降伏を認めようとしない部下(黒田清隆)に対して西郷隆盛が語り掛けた言葉。

結局、「会津だけで勘弁しておけ」と、西郷さんの指示で庄内藩は降伏を認められる。

 (庄内では今でもこの歴史を大切に語り継いで、西郷さんを大切にしている)

強いがゆえに、辛い運命を背負う。果たしてあの当時、会津と同じ役割を、他のどこかが背負うことが出来ただろうか。

否。会津にしか果たせなかった。義に厚く強かったからこそ、幕府から頼りにされ、朝廷からも信頼されていた。それが会津。

1つの時代を終わらせ、新しい時代の幕を開けるために会津はその身を犠牲にした。

ゆるやかな政権移譲では、その後の明治新政府の政権運営がうまくいかない。分かりやすい形でどこかに「悪」をつくり、それを叩きのめす必要があった。旧体制を終わりにさせ、新体制を盤石なものとするために。

(二本松の空)

 

ここまでみてくると、私の中ではどうしても、会津とエミシの生き方がリンクしてくる。最後、エミシと会津を語ってまとめます。

会津とエミシのつながり―何があっても義を貫き通す―

日本の中心勢力がどんなに強大な力であろうとも、エミシ(※)は義を貫き通して戦い、そして散っていった。義は常にエミシ、東北にある。

※エミシについては以下の記事参照

本当は戦いたくないけれど、攻め寄せてくる以上は守るべきものを守るために全力で戦う。歴史上、東北がずっと失ってこなかったもの。国が滅んだとしても脈々と受け継いできたもの。

エミシの誇り東北の魂。義の想い。

 (戊辰150周年ののぼり.会津は明治維新とは言わない)

エミシのアテルイに始まり、安部氏、奥州藤原氏へと受け継がれ、少なくとも1200年以上の間、東北は大切なものを受け継いできている。

大切なことは、国を残すことだけではない。

どんな生き方を示すのか。どんな想いを後世に託すのか。会津はそれを、己の義を貫くことで日本中に示した。

結果、会津藩は滅びはしたが、会津が大切にした想いはしっかりと現代まで受け継がれている。

(会津若松の戊辰150周年ポスター)

義のために戦った会津の生き方。見習うべきところはたくさんある。会津の選択がすべて正しかったとは言わないけれど、それでも、会津は間違っていなかった。

近代日本を知る上では、なくてはならない会津の歴史。会津出身ではないけれど、語り継いでいきたい。私の文章から少しでも何か伝わってくれたら嬉しいです。

(完)

(あとがき)

実際に自分の足で東北を旅して感じたこと、本を読んで理解したことを元に記述しています。戊辰戦争150周年の年だった2018年に今回の記事で取り上げた戊辰戦争ゆかりの地をよく旅しました。(会津、白河、二本松、庄内、仙台、等)写真はすべて自分で撮ったものです。

東北に惹かれる以上、どうしても会津に肩入れした記述になってしまうことはお許しください。今回は会津にフォーカスしましたが、薩摩や長州が全て悪かったとは思いません。確かに心情的に許しがたい部分もあるけれども、薩摩には薩摩の立場が、長州には長州の立場があった。

多少無理をしてでも、あの時日本は近代化に向けて舵を取る必要があった。日本中の諸藩が傍観する中、水戸・会津・薩摩・長州・長岡・庄内などは時代の最前線で戦って近代日本の礎を築いた。

事実、会津の死者も多いけれど、政権を取った勝者とされる長州も薩摩も多大な犠牲を払っている。明治維新以後も長州では萩の乱が起り、薩摩では西南戦争が起り多くの犠牲を出している。東北にもたくさんの長州の方のお墓が残されている。

ある片方の視点から観ただけでは、歴史は片手落ちとなる。たとえば今回は会津藩の武士階級の視点にフォーカスして書いている。武士からみたら「義を貫いたかっこいい生き方」となるが、農民・商人階級からみたら「どうして戦ったんだ」「なんてことしてくれたんだ」ということになる。

実際、戊辰戦争終結後すぐに会津では大規模な農民一揆が発生している。つまり、会津藩のやり方に異を唱える者たちもたくさんいたということ。武士階級でなくとも戦乱で家を失ったり、家族を殺された人たちもたくさんいた。

どの角度からどの視点で歴史を記述するのか。とても大切なことだと思う。いつか別な視点で、薩摩・長州にフォーカスした記事、武士階級以外にフォーカスしたものも書けたらなと思います。

長文お付き合いいただきありがとうございました。

※後日、京都守護職時代の会津藩にフォーカスした記事を書きました。あわせてご覧いただければと思います。

■『京都に眠る会津の魂』-京都を命がけで守った会津藩-

『京都に眠る会津の魂』-京都を命がけで守った会津藩-

 

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