(会津若松市内にたくさん掲げられていたのぼり。2018年は会津にとっては明治維新ではなく戊辰150周年)
■もう一つの日本、東北
東北には”もう1つの日本”がある。
王道の歴史には書かれない、もう1つの日本の歴史。
その歴史を知るために東北を旅しているといっても過言ではない。
本当の日本を知るためには、なくてはならないもののように感じる。
今年(2018年)は明治維新150周年。
そして同時に、戊辰戦争150周年でもある。
両者の間には決定的な違いがある。
勝者の視点でとらえた明治維新なのか、敗者の視点でとらえた戊辰戦争なのか。
今回は明治維新とも深いつながりのある
会津藩の生まれ変わり、斗南藩(となみはん)の歴史を紹介します。
■斗南藩とは~明治維新の裏側~
2018年のGWに、6度目の東北旅に出た。
ちょうど1年前のGWに始まった東北を巡る旅も、気づいたら6度目。
青森の津軽半島、下北半島を中心に回る、約5日間の旅。
(十和田湖畔の桜)
今回の旅の一番の収穫は
“斗南藩と会津藩の歴史に触れられたこと”
斗南藩という言葉を初めて耳にした方も多いかもしれない。
斗南藩(となみはん)とは、1868年の戊辰戦争(会津戦争)を経て、会津藩が滅ぼされた後に、名前を変えて、斗南藩として再興を許された会津藩の新たな名前。
いわば、会津藩の生まれ変わり。
(雪の東北.斗南藩があったのは極寒の地)
明治維新(戊辰戦争)の時、薩摩・長州を主力とする新政府軍に会津藩は敗れます。
いよいよ会津に薩長の矛先が向いてきたとき、東北・北越の諸藩は団結して、会津を守るために、奥羽越列藩同盟という同盟を結びます。
そして、”どうか会津を助けてください”と、薩長の使者に嘆願署名を出します。
(正確には庄内藩の嘆願も行っている)
しかし、この要求ははねつけられ、会津戦争が始まります。
会津は激戦地となり、たくさんの死傷者(藩としては日本一)を出して、最終的には新政府側の勝利に終わります。
そして、会津藩の土地は明治新政府によって没収されました。
(会津若松城、天守閣からの景色.肥沃な土地)
土地を没収されたのち、新たに与えられた主な土地が青森の下北半島。
下北半島の中でもさらに北の方に位置している現在のむつ市に、斗南藩は かつて存在しました。
(赤いところが斗南藩の土地)
(みちのくの 斗南いかにと人問はば 神代のままの国と答えよ)
(斗南藩があった場所は不毛の土地。冬は極寒)
会津藩再興を許されてなんとか頑張ろうとやってきた会津藩の人々は、
下北半島の本当の辛さを知りませんでした。
冬は酷寒。農作物もほとんど育たない不毛の大地。
当時、下北半島で生活をした会津藩士の言葉を紹介します。
落城後、俘虜(ふりょ、捕虜のこと)となり、下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着のみ着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥(しとね、ふとんのこと)なく、耕すに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆(むしろ、草で編んだ簡素な敷物)を張りて生きながらえし辛酸の年月、いつしか歴史の流れに消え失せて、いまは知る人もまれとなれり。
【ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書,中公新書,石光真人編著】
記録はほとんど残されていませんが、この言葉からも推測できる通り餓死者が絶えなかったと言われています。
(斗南藩史跡地.青森県むつ市)
(皇族の方も来られている)
(皇族と会津の繋がり)
斗南藩史跡地から少し歩いたところに斗南藩の方々のお墓が今もあります。
人知れずひっそりと、でも、綺麗に掃き清められたお墓。
(斗南藩士の方々のお墓)
歴史からは消え去ろうとしているけれども、決して忘れてはいけない歴史。
訪れた時の状況を少し書きます。
夕方5時。その日の最後の目的地。
住所を頼りになんとかたどり着いた場所。ここは観光地ではない。
自分たち以外には誰もいない。
小雨が降っていて、ひっそりと肌寒い空気。
道路沿いの小さな林の中、人知れず何も語らず、ただそこに確実に存在している。
この場所は、歴史から消えかかっている。
きっと、わざわざ訪れる人は、そう多くはない。
お墓を目の前にした時、非常に感じるものがあり、涙しそうになりました。
何も語らないけれど、気づいてくれる人をずっとずっと待ち続けている。
強く訴えかける何かを感じました。
(下北半島と海)
藩としての義を貫いたばかりに、朝敵(朝廷・天皇の敵)の汚名を着せられて、日本で最大の犠牲者を出し、滅ぼされて会津の土地を奪われて、本州の最果ての地に追いやられた会津藩。
会津にとって、どれほど辛い歴史だろうか。
どれだけ悔しかったのだろうか。
徳川幕府の命に従い日本の最前線で命を懸けて精いっぱい力を尽くし、どの藩よりも犠牲を強いられたのに、当時、日本一の悪者とされた会津。
まるで日本中の苦しみを一手に引き受けたかのように感じる。誰も引き受け手がいないから、義理堅く強い会津がその辛い役目を引き受けて、耐え忍んだ。そして滅んだ。
あまりにも辛く悲しい歴史。
決して日本の歴史から消し去っていいものではない。
会津の犠牲がなければ、近代日本は成立し得なかった。
輝かしい明治維新の歴史の”裏”にある、もう1つの日本の歴史。
単純に善悪で語りたくはないから、新政府の薩長が悪、会津が善だとは言わない。
どちらも明治維新前後の日本で、傍観者となることなく、日本の最前線に立って歴史を動かした。
薩長には薩長の役割、会津には会津の役割があった。
(事実、薩長も政権を握る過程でたくさんの犠牲を払っている)
(下北半島の夕焼け)
ただ、政権を取ったのが薩長だから、今回見てきたような、会津の歴史はあまり表には出てこない。
あくまでも、歴史の上では、”会津という悪を正した薩長という善”という構図にしなければならない。
たとえそれが、事実に反していたとしても。
歴史を書くのは、いつも勝者。
敗者の歴史は消され、勝者の歴史が残る。
日本に住むたくさんの方に知ってほしい歴史。
約1200年前のアテルイの時代から始まる、エミシ・東北の抵抗の歴史と、今回の会津の歴史も繋がっている。
なぜ、会津が攻撃対象となり、滅ぼされなければならなかったのか。
東北、エミシの歴史と明治維新の時の会津藩の共通点とは何か。
このあたりのことは、とても今回だけで書き切れるものではないので、また機会を改めて書きたいと思います。
では。
(つづく)
会津藩がなぜ滅ぼされなければならなかったのか、後から記事を書いたので、興味がある方は以下を参照ください
こんにちは。福島の郡山で生まれ、会津はふるさとのエリアです。現在は広島県の福山市に住んで、小学校の先生をしています。作曲が趣味で最近はウイグルの詩人の詩に曲をつけることが多いです。斗南藩のところをリンクを貼らせていただきました。今後ともよろしくお願いします。